演奏とは演じること
先日画廊での終演後、絵を描かれる皆さんと食事しながらのお話。
勘が良く練習もよくして、上達が早い人がいます。
何年もギター弾いている人からすると、もうそんなに弾けてすごいねー、ということになります。
でも、その何年も弾いている人の演奏には、ちゃんと時間をかけただけのものがしっかり詰まっているのです。
人にいくら教わっても、想像や理解ができたとしても、自分でこれだと体感として気付かないとなりません。
それは、どんなに器用だったとしても、ある程度時間を重ねた末にしか得られないことだと私は思います。
さてその次は演じる、という段階です。
(最後に弾いた)私が違うのは、「演じられているもの。」と、おひとりがおっしゃって、そういう言われ方をしたのは初めてだったので、視点が違うわ〜と思ったものです。絵を描く他にもダンス(ラテン系)をなさる方で、ほぅっと勝手に納得したのですが。
観客がいて表現をする自分がいる。そこで演劇ならセリフがあって動きがあって、演奏の場合はそれが楽器の音(とたまにお話も)と弾く人の動きになる。空間全体までも意識して、その中で計画通りに進めていく。演じるとはそういう事かな、と思うのですがあとは、観ている人に伝わるには恥ずかしいくらい大げさに振る舞わないといけない、って事。
(私は昔ちょっとだけ演劇部にいたことがありましたが恥ずかしくてすぐにやめてしまった)
でも演奏も同じで、大げさくらいがちょうど良いのだ。
日本語だと演奏する=「弾く」ですが、英語ならパフォーム、play にあたる仏語はjouer(遊ぶ、演じる)など、「爪弾く」という別の単語はあっても「私はギターを弾きます」という時にそれは使わないですもんね。
思いがけず面白い事を言われたので、これからちょっと意識してみよう。今年は演奏(技術面)に関しては反省もあったけど、表現面も含めて来年へ向けてまた新しいささやかなチャレンジをしようという気が起こってきました。
妖精さんがくれた気付きの機会。
Youtubeで中島みゆきのコンサートを見る機会がたまにありますが(しかしあっという間に存在しなくなってしまう。著作権の問題だから仕方ないし、本来ならDVDを購入するべきなのは分かっているのだが。いずれね)、いやなぜみゆきの話かというと私が大ファンだからなのに過ぎず、他のエンターテイナーを例に挙げても問題ないのだがそれはともかく、歌の凄さ、驚くほどの歌唱力はもとより、踊り、演じきっていますね。劇仕立てのコンサートも今はやっているはず。(加えてビデオ構成も計算し尽くされていると思う)。舞台にいるからには楽しませる、この気迫。やはりそれかなー。一皮も二皮もそれ以上むけている。
真澄ちゃんもいずれはギターを弾きながら踊ってもいいくらいと思う。真面目に。