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2021-01-15

遅く帰った夜は。

レッスンが終わって、閑散とした街を御茶ノ水駅に向かう途中のイタリア料理店、ピッツァ テイクアウト30%off。20時閉店前に買い、帰宅。

こんな状況下でも、リモートワークだったり介護と仕事あるいは育児と仕事の合間にだったりを、スケジュールやりくりしながらレッスンに通って来てくれる皆さんありがとう。

「音楽は生活の一部なのでがんばって続けたい」「楽器やってる人が周りにいないのは、ちょっと優越感」、、と生徒さんたちの言葉を聞いては、なんだか私よりもずっと音楽を必要としているんじゃないか、とか、思うように弾けないことだけを悩んでしまうけれど実は楽器ができるって外国語が話せることくらい凄いんではないか、と思ったり。

こういう生徒さんたちがいなければ、私がこの教室で15年前に講師を始めたのは偶然だけれど、私は今ギターを続けていただろうかと思う。

何故かこの御茶ノ水の教室は私に合った。大手音楽教室でやらせて頂いたこともあるがどうも、音大卒の肩書きもしくは受賞歴でもないと生徒は集まりにくいのか。私は引越しを機にそこを辞め、当時引き継いだ若き音大出の先生はそのあと今もずっと続けられているようだ。

その点今は場所柄もあるのか、講師もバラエティーがあるおかげで私のようなものにも役割配分されている。

ところで今月30日土曜日は発表会。

アイゼナハ音楽院 第42回 発表会のお知らせ

今回はギターのいつもの出場メンバーの名前がなかったりしてちょっと寂しい代わりに、他楽器(古楽器も)の演奏が多数を占めています。それはそれで楽しみです。講師演奏は入れ替え制の有料。小さい頃から音大を目指して勉強し今も演奏活動が日常という先生たち、、ぐわわー…あっちこち彷徨った挙げ句人生の途中から参入したような私には同じ学院の講師と言うには憚られる、眩しい存在。の先生方の演奏が聴けます。(緊急事態宣言下ではありますが、開催の方向で進んでいます。)

遅く帰った夜、ピッツァとワイン片手に書きました。

 


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コメント2件

  • Miou Kitamura より:

    御茶ノ水だけに水が肌に合ったと。

    楽器と外国語ね。外国語は道具にすぎないと返そうとしたが、使い方では道具以上か。真澄視点ではなく、私視点の話になるが。
    例えば、フランス語と日本語では、同じような考え方になるか。違うと思う。日本語の、主語を抜かす特徴、肯定か否定か、最後にならなければ分からない特徴、等。フランス語の、女性名詞か男性名詞か決めなければならない、主語によって動詞の形が変わる、などなど。その上でなおかつ同じ思考形態になるか。違うと思う。それを踏まえても、言葉は道具にすぎないと言う人は、楽器を弾いても、技術のみなのだろう。
    真澄ちゃんが講師として優れているのは、そういう点だと思う。楽器が道具以上のものであることを伝えているのだろう。

    • masuminn より:

      うん、普段お茶はあまり飲まず、コーヒーかアルコールなのだけどね。

      外国語についてはさすがに深いコメントをありがとう。
      自分が解さない言語を人が喋っているだけで、わかんなくても、何やら、すごーい!となるじゃない。そこには、ああ素敵だな、という感情がうまれる。
      現地生活者レベルで話せなくても。
      それと同じく、楽器なんてやったことがない人からすれば少しできるだけでもそこには大きな隔たりがあって。それだけの努力を時間をかけて積んでいるわけでね。

      やっている分だけ、外国語も音楽も、見える世界が広がるのは間違いないと思う。
      そのレベルの話だったんだけど、書いてくれた辺り、言語構造の違いがいかに人の考え方に違いを及ぼすのか(なんかそんなテキストを学生時代の講義で読んだ気もするけど、いずれにしても実践からくる理解ではない)、私にはまだ見ぬ興味深い世界なのでぜひ深く聞いてみたいところ。

      それに私は道具としての楽器を扱う技術しか教えられないけど、むしろ私よりも音楽好き・ギター好きの生徒さんが集まってくれているおかげで、それに支えられて続けていられるようなもの、と自分では思っているよ。

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