2KM泳ぐ
週1回の水泳なら、2KMは泳がないと意味がない、という記事をみたので一念発起、土曜日の仕事のあとに古巣の東京体育館プールへ行ってきました。(いつもは区民プールで25M20往復して1KMで終わり)
ここは本格的な競技用プールなので片道50M、片側は水深があって立てないので折り返しでは殆ど休めず、100Mを一気に泳がなくてはなりません。
浅いプールと違い、進んでいる感がなく、水が腕に重たく感じるのも精神的にきついです。
でも意外とペースを落とさず(というかもともとゆっくりの省エネ泳法なので)、50分ほどで2KM泳ぐことができました。なんなら3KMでもいけそう。昔、我流で泳いでいた頃は、1KMでもヒーハー言っていたのですが、基本だけでも習う事は非常に大切ですね。
まあ、カロリーを消費する目的だけなら、下手でバタついた泳ぎの方が消費エネルギーは大きかったでしょう…
そうそう、20代だったのですが、1KM泳ぐのに35分くらいかかっていた頃、「こんな苦しい想いをして将来、よかったと思える時が来るのか‼︎ いやきっと来る」と根性で泳いでいたのを、今同じ場所で泳ぎながら思い出していました。
朝、レッスンで生徒さんや講師仲間と、「趣味なのに、仕事が休みの日にわざわざレッスンに来て何故にこんなに大変そうに苦労してギターを弾くのか」「たしかに。でも日本人は努力が好きだから」「簡単にモノになったら面白くないんですよ」なんて会話をしたばかりでした。
とりあえず、お昼にテイクアウトした代々木の人気店のバーガー・・・のカロリーくらいは消費したでしょう。
昔OL時代にこちら方面へ通っていましたが、今ではめっきり足を延ばす機会もなくなったので、新国立競技場をこの目で見たのも初めてでした。
たった600円/回 で素晴らしい設備のプール(空いてるし)。土曜日は仕事とセットで、変貌した神宮外苑もぼちぼち探索していきたいと思います。
コメント4件
あーそうなのよ。その時は脳を極限まで働かせて、仰向けになるという解決策しか見つからなかったよ。人間て、ぎりぎりで結構落ち着くものだ。まあ火事とかの緊急性とはまたちょっと違うだろうが。こうして人って死ぬのか、これで怪獣は母なし怪獣となるのか、と考えた。
体のどこにも、もう力が残っていなかったから、ここで仰向け失敗したら沈むなと思った。背泳ぎなんて、小学校以来だったはずだ。が、それしかなかった。
成功して、ああ、このままならもうちょっと浮いていられるな、と、まぶしい空をぼおっと見つめながら考えた。でもいつまでこうしていなければならないのか。遠い浜では家族連れがきらきらと楽しんでいる。微かに笑い声が聞こえてくる。誰も私がここにいることを知らない。
とそこで、一緒に来ていた友達が(そもそも、こいつがさっさと湖を横切って泳いでいってしまったのを追いかけてこうなったのだ)「よお未央、どうしたんだよ」と戻ってきた。疲れた、と呟いたら、なに、大変だ、俺の肩につかまれ、と。それから、足を少しでもばたばたできるかと。水泳の達人なのだが、それでも人一人背負って泳ぐのは大変だったはずだ。
こうして浜まで戻ってこられた。今でも命の恩人だと思っている。
おおこわい。まざまざと光景が目に浮かんだよ。生還だね。私は人を背負って泳いだことはないけれど、自分には助けるのは無理だと思う。訓練しないと?
私もダイビング中や車で高速を運転中に、もし○○れば、と想像することはあるけれど、実際そこまでの(残された仔怪獣たちを思うような)ぎりぎりの人生経験はまだ無い。でもやっぱり何千本と潜っている人に聞くと、命に関わる装備の不具合に一度は遭ったりしている。確率の世界というか。そんな時、冷静になって機転をきかせるのか。考えたくないけれど、それでも潜りたいけれど、溺れ死にだけはいやだ。
本当に監視員のいない所では泳ぐべからず、だねえ。
陸における亀のごとしの水中の私には、2キロと言われても感覚がつかめないが、すごい運動量なのだろうということは分かる。
重い水ときくと、湖で溺れかけたときのことを思い出すなあ。重いというよりは、腕も足もしびれて動かせなかったのだが(午前中に柔道の強化練習だったので)。
あれ以来、監視のない場所には泳ぎ出ておりません。サバイバル(生存)技術という言葉が大好きなのだから、いずれは泳ぎのレッスンくらい受けておくべきなのだろうなあ。このままでは、有事には真澄ちゃんは生き延びても私は。。。