歓びと哀しみと
この4月は、今まで聞いたことのないまるでモーツァルトの魔笛の夜の女王のアリアのような歌いっぷりをする鳥が来ていて、毎日聞こえてくる高らかなそのお喋りぶりに笑わせてもらっています。
歌声が聞こえない日には元気かなぁ…と心配になりもし。
ルイに朝4時に起こされご飯をあげに上がると、もう外で元気な歌声がしてニヤニヤし。
先日、結婚記念日で久しぶりに外で祝おうと、夫と横浜の山手に行った時も。
初めて来たけど、外国っぽい。カナダみたい?(行った事ないけど)
山手の谷でウグイスが鳴いていると思ったら、例の子と同じ囀りアリアまでもが聞こえてきたのでした。
夫とよく記念日に行っていた思い出のお店はだいぶ前に閉店してしまい、以後気に入りのお店も見つからず、一昨年と昨年はコロナで家でお祝い。今回珍しく、記憶力の悪い夫が急に思い付いたお店。昔仕事付き合いで来てたのだと〜。
呑兵衛には最適な飲み放題付きプラン、そして雰囲気とお味はとても良くて、これでいいのだろうか?というリーズナブルさ。また来たいです。
しかし当たり前だけど、人生いろいろ。天気がコロコロ変わる今のように、私の気分も変わる。昼があるから夜がある。光があるから影がある。さあここからは陰の話です。
この間までずっと父を支えてきた、今度は母の病が判明。父と同じく、延命となる治療は受けない意志、キッパリと。
一人になった母をこれからはあちこち連れ出そう、と弟と言っていた矢先に。それを思うとあまりに早いけれど、でもきっと私も同じ選択をする。毎朝8時、生存確認の電話をもらう。あいかわらず実家で暮らし続ける母との約束。
遺伝ってあるあるだなぁ、と今さら思う私。鏡の中の自分の顔にしろ、考え方にしても。
子供が反抗期だったりして、家族みんなが黙ってご飯を食べている時も、ひとりで思いついたことを次から次と喋りまくっていた昔の母。私も気がつけばテレビに反応してひとりで喋っていたりする。(オットはスマホに夢中)
おしゃべりは決して自認していないし、社交的な方面には発揮されないおしゃべりですが、不思議です。
さてさて、生まれるのは偶然、死は必然。なんて本で読みましたが、ヒトがいかに死ぬかは、なんと難しいことなのかと思う。自分も含めて、めんどくさい生き物だ、とつくづく。最近飼い猫を看取った生徒さんから、生き物はこうやって衰え死にゆくのかを猫に教わった、と聞いた。
心の準備ができるというだけ、幸せなのかもしれない。楽しい時間のあいまに、ふと思い出し、付きまとう陰。母のことだけでない、これから長いような時間をかけてやってくる見送り。そのために私の明るい死生観はあるのかも。
コメント2件
未央ちゃん、いつもありがとう。たしかに重いこと書いたなとは思って、でも私には気持ちの整理にもなっていいのだけれど、コメントはしづらいよね。コメントって難しい。私は自分ごとを書くばかりで、人の書いたものにコメントすることはなかなかできない。別物だと思っている。かと言って、書いている人の気持ちを想像したり寄り添いたい気持ちはあるけれど。
それを言葉にする難しさ。エネルギーも時間もいる。
あと、コメントって、その人の世界に入って行かなきゃいけない感があるのが私にとってのコメントのハードル。主はあくまで書いてる人だから。(と思う経験があって、苦手になった)そう思うと、未央ちゃんは本当にコメントの達人。
だからあえてお礼を申し上げます。
けれど、神じゃないのだから、読んでくれるだけでいいので。会った時にでもお話しできればと思っているからね。
ところで、父母の悪口大会か。。お元気なんだね。たしかうちの父母よりも年上だと記憶しているけど。
そう、みんな年老いていくしわかっちゃいるけど、別れの恐怖を先延ばししたいのだよね。(だから延命するとかそういうことじゃなく。)
何歳であろうが、後悔なく、理不尽でもない逝き方をしてほしいものだ。
この記事を最初に読んでから随分時間がたちました。今日見てみたら、新着がぞくぞくでちょっとびっくり。
自身が忙しかった(そして疲れていた)のもあったけれど、内容の重みに、ずっと、どうコメントしたらいいのか考え続けていました。適当なことが言えない私の性格もあるけれど、真澄ちゃんはこのブログで自分の真実をぶつけてくるので、私もいつも、熟考してコメントをしています。
それにしても、どう何を言ったらよいか分からない自分が自分でよく理解できず、それを分析した結果。真澄ちゃんのお母様の話だけれど、私も結局は似たような状況にあるからでした。父母はまだ「健」在ですが、むしろ「在」になってきている。昔と違って、ちょっと不調があると聞けば、ぎくっとする。
姉妹とラインで、父母の悪口大会は相変わらずですが、そんな中にも、労る言葉もでるし、心配する心情は強くなる一方。弱くなった両親が、ひょっとしたら明日にでもそこにいなくなるかも知れないという、この恐れがいつも潜んでいる。
人間いつかは必ず死ぬ。当たり前のことだし、いつまでも生きていてもしょうがない。けれど、見送られる側も、見送る側も、後悔を抱えてはいたくないよね。親をどう見送るかは、自分の生き様とも密接に関わっているんだと思う。