母からの手紙
実家整理中につき、我が家の地下室の棚も整理していたら、懐かしい手紙の数々が。友人や、当時の同門のギター友など。
その中から、母からの手紙をより分けて祭壇へ↓↓
社会人になり団地住まいから一刻も早く抜け出たかった私、23才で一人暮らしを始める時、7万円の大枚はたいて吉祥寺のインテリアショップで買った薬品棚。入荷待ちの人気商品でした。
今、私の想い出の品を飾る祭壇になっている。引っ越し先に合わないからと、処分しなくてよかった。このたび父母の写真と遺品が加わった。
母は独身だった私に、近況を伝えるハガキやバースデーカードをまめに送ってくれていたのだが、今思えば父がその頃からいろいろな病気に罹っていたのをおくびにも出さず、また私に対し結婚のプレッシャーをかける事もなく、元気か風邪など引いていないか、今度帰ったらみんなで何処どこへ行きましょうよとか、そんな内容に終始していた。書き出しは○○の花が咲いた、とかで始まって。
ある時私がアラサーだった頃の発表会の演奏を聴きに来て、私をギターの道の方にぽん、と背中を押してくれるような手紙もあった。多分迷っているのでしょうが、私達は期待します、と。その決断をするには決して若くはない時期に。
この母のおかげで前だけを向いて好き勝手できて、で、今がある。久しぶりに読むと、やっぱりまだまだ頑張らないといけないかなと思う。
母とは、一緒に暮らしているとよく言い合いのケンカをした。が、離れていれば程よく気遣い合える関係でいられた。
だから、ほぼ突然失ったとはいえ、じわじわと毎日穏やかに喪失感を噛み締められている。
毎日曜早朝のソロドライブは湾岸道が空いていて快適で楽しい。朝食は実家近くのセブンで塩むすびを買って車の中で食べるのが決まりに。4月にはそうだったように、エンジン音に気付いた母がベランダに出てきてこちらに手を振る姿を今、無人のベランダに重ねて見る。
母の鉢植えを全部運び終え、総勢39鉢が狭い我が家に来た。そのため、バックで車庫入れする際の鉢を感知して鳴る警告音がうるさくてならない。
コメント6件
そうですね、失くして初めて本音で思う、母への感謝です。
もっとああしておけばよかった、という後悔の念もなくはないですが、それよりも、会って面と向かってあれこれお喋りしたい気持ちが強いですかねぇ。
それはもう永遠にない、イコール喪失感だと思っています。死後のことはネットで調べても本当の所はわからないですしネ。
片岡さんのコメントには誰にも同じなんだと思えて心強いです。
あの頃はメイルとかほぼ存在せず、手紙、手紙だったんだよね。電話じゃなくて、葉書なのがお母様らしさなのかな。電話もしていたのだろうけれど。
メイルとかLineとかは実に便利で、もうこれがない生活は考えられないが、やはり味のあるのは肉筆だ。フランスに来てから戴いたものは、仕舞い込んではいるけど全部とってある。当然母からのもある。真澄ちゃんのもだよね!
叔母が、叔父の退職後?に、便利に生活したいと自分のマンションを購入した。叔父は一戸建てに残ったのだが、毎日のようにどちらかがどちらかに(今でも)行っているはずだ。
そのマンションを初めて訪れた時、叔母は、私の秘密の場所よと、大切そうに、小さな物置の扉を開けて見せてくれた。中は、絵を描くのが趣味だった亡祖父の絵が飾られていた。
私は祖父とは折り合いが合わなかったので、ふうんとしか感じなかったが、真澄ちゃんのこの記事を読んで、しっくりと分かったよ。
そうそう、未央ちゃんからの手紙も、いっぱいとってある。
父母は、いっとき弟が携帯を持たせてやっていたけれど、使わなくなってしまった。母が打つたどたどしいメイル文面が可愛かったのだけど。
叔母さんは、未央ちゃんが飛行機内で眼鏡を紛失して買ってくれた叔母さんのことかな。
仏壇ではなくて、故人の思い出の場所は可愛い棚や物置であるところが自由で良いと思う。
実家の仏壇は、雛人形とともに、整理業者さんが供養とお炊きあげをしてくれました。
叔母違い。一人は母の上の弟のお嫁さん(眼鏡おば。歌うたいおばでもある)。もう一人は母の妹。漢字で書き分けるらしいが、叔母伯母と。私は面倒でしない。どちらのおばも良くしてくれて、大切だよ。と書き進めるのは、真澄ちゃんの叔母さんの話を読んだからだが。
ステキなお母様ですね。。。
そして、その感性は、ちゃんと、真澄さんに受け継がれたんだとおもいます。
今の自分があるのは、母のおかげ、と感謝の気持ちが湧いてきますでしょ。
喪失感は、私も、今だに変わりません。
それはそうだよね、と思います。
だって、この体にながれていふ血は、全部、母からもらった血ですもんね。