ピンクという色
今、日経朝刊で連載されている「大好きで大嫌いなピンク十選」、作家の藤野可織さんが選んだ絵とそれについての文章が面白いです。
ところで、日経新聞の朝刊の最終面は他紙と違い、テレビ欄ではなく文化欄。新聞、毎日取っていても私はほぼこの面(と1面のコラム)しか読まないです。だって経済新聞・・・政治経済、って。自分とはまるで対極にあるような世界。とはいえ、社会に暮らしている以上、一般常識程度は持ち合わせないといけないのかもしれませんがテレビのニュースでいいや、と。だから中身、読んでません。
話を戻しますと、ピンク、薔薇色、ロゼ・・・と書くだけで微妙にニュアンスも違うようにも思いますが、この藤野さんが書くピンクという色への愛憎というか、好き嫌いの感情が私とても納得できるのです。それぞれの記事から一部引用すると・・・
女の子はかわいいのがいちばんで、かわいい女の子にふさわしいのはピンク。幼いころはだからピンクが大好きで、青春時代はだからピンクが大嫌いだった。
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ピンク色それ自体が嫌いなわけじゃない。「かわいい女の子」にあてがわれる色だから嫌いなだけで、流れ作業みたいにピンクで飾られる「かわいい女の子」の「かわいい」に文句があるのだ。その「かわいい」は、私のなれるものとはちがったから。それに、なりたいものともちがったから。
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自然界にあってもとからピンク色をしたものにはいちいちめくじらを立てない。たとえば、桜だ。〈略〉ピンクは捉え方次第でかっこいい色にもなれるのだ。
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この写真(ピンクのドレスを纏った陶器の人形が落ちて割れる瞬間の写真作品)を見ると、私はいつも私が壊したかった「かわいい」と、「かわいい」に心のどこかを壊されたたくさんの人たちのことを思う。
さすが作家さんの文章はうまいなーと(あたりまえか)毎朝、コーヒー片手に妙味を味わっています。なんでここは漢字でなく平仮名なんだろう、とか考えながら。若い作家さんなんだろうけど、難しいことについて言及しているのではないんだけど、でもなかなかこうは書けないぞという感じ。私のこのブログも、このひとに同じ内容を書き直してもらったらすんごい面白いブログになるのではなかろうか。なんて。
文章と絵をじっくり交互に見ては、いちいち同感しているのですが、いわゆる「かわいこぶりっこ」がこの人は嫌いだろうなぁ。私もあえて着るものはピンクは遠ざけているところがあります。せいぜいピンクのブラウスを、甘々になるからスカートには合わせず。それも365日に1日くらい。ただ、差し色的にあくまでさりげなく、ちら見せ程度で着けるのは好き。それもハードな黒主体の中で、とか。
ファッションは自分がどう見られたいか、だと思うので人がピンクを着ていても文句はつけませんし似合って素敵ならばもちろん褒めます。それに、夫にはピンクの洋服を勧めることもあります。
まだ連載の十のうちの六。残りの四つも楽しみです。
コメント4件
はは今こそか、そうだね、私も、無駄な反抗はやめて、好きにピンクを着せてあげよう。
。。。猫にベビーピンクは?色で言えば、ゴジラには似合いそうだったが、(むすっとした)顔がね、なんだか無理だったかな。Voodooは、体の色はピンクとは合いそうになかったが、全体的な雰囲気はピンクと相性が良かったかも。これも、女の子と男の子の差?いや、真面目に。
珈琲片手にピンクの思考か、なかなか絵になる概念ですが。
ピンクと女の子は微妙な問題だよねー。永楽が生まれるおりに、買ってくれるのならピンク以外と指定したのですが、そうすると(別に車の絵で青でも構わなかったのだが)黄色くらいしかないと、結局ピンクだった。私はどんな色でも良いと思うが、娘二人ともピンクを好むのは、世間一般の傾向にやはり染まっていくのか、女の子とはこういうものなのか。
ただ、成長すると誰でも、好みが個性的になってくるのは事実だよね。それに反抗的な態度をもって臨むか、さりげなく示していくのかも、それこそそれぞれ。ここで新聞の話に多少無理に結びつけると、知識の基盤さえあれば、情報源も、情報の深さも、個人の選択で良いのと同じでさ。
真澄ちゃんのブログを藤野可織氏に代筆してもらっても、真澄ちゃんのブログにはならないでしょう。真澄ちゃんの感性をそのままもって書かなくては、真澄ちゃんのブログにはならないよ。もちろんお二人の間にはかなり共通したものがあって、それだからこそ真澄ちゃんは彼女の文章が好きなのだろうが、それ以上ではない。真澄ちゃんのブログは、だからどうしても、真澄ちゃんの感性と文章をもってしかできないものだよ。私は大好きだし、素晴らしいと思っている。