人生を楽しむ、その生きざま自体が音楽
練習しなきゃいけないけど、なんかもう疲れちゃったなー、という時は、「積ん読」状態の現代ギター誌を適当に手に取って寝転ぶ。
昨年10月号。部分的に読んだところもあるけど、巻頭のジュリアン・ブリーム追悼記事は未読だった。
何名かのギタリストが追悼文を寄せている中で、福田進一さんの文章の最後にあった言葉が響いて、今回のブログタイトルにしました。
その文脈をここに引用しようと思いましたが、長くなるので、よろしければ下画像をご覧下さい。
で、昨日は発表会があったのですが、一人、10年以上はお付き合いのある生徒さんが海外赴任となるため、今回が最後の出演。娘さんを連れて、皆の演奏を最後まで聴いてくださいました。
私もかなり久しぶりの講師演奏。朝から来場して、小さいお子さんにとっては長い長ーい時間を過ごしているはず。待っていてくれたのがわかるので、私も楽しみながら演奏しないと!(子供向けの楽曲以外で、子供が楽しめる演奏をするのは至難の業!)
と思った矢先、前日に読んだ言葉、「人生を楽しむ、その生き様自体が音楽」が浮かびました。
演奏曲目のワルツ・ファボリート(N.コスト)の、時折翳りを見せながらも歓びに満ち溢れた、楽しくて仕方ないような曲調に、自分の今の気持ちを乗せて演奏する!と臨みました。
演奏中何度か、客席にいる母娘の顔が瞼の内側に思い浮かび、勇気づけられながら夢中で弾きました・・
夜、その生徒さんにリハの写真を送ると、娘さんが演奏がすごいと感銘を受けていた、との返信😆感銘は親の言葉だろうけど、伝わっていたなら、嬉しい。
私も偉大なギターの巨匠達の人生、生きざまに、その何十分の一かでも倣いたい。と、このちょっと疲れちゃう日常の連続に、清涼剤を注入されたような一日だったのでした。音楽は聴くのも演るのも、偉大な行為だ・・
コメント2件
手にしていると実感できる時の方が少ないかもね。でも日常ってそんなもの?
音楽も私には数ある要素の一つだから時には距離を置きたくなるしね(基本無音か、自然の音だけしているのが好き)
揺らぐけれど、人生はところどころで掴めていればいいんじゃないかなぁ。
なんだかじーんとくる文章だ。
なんだか今朝ふと思ったのだが、人生というのは、「手にしている」か「手にしていないか」なのでは。そして、もちろんそれも、その時その時による。(今朝の私は、人生がつかめなかったので)。
真澄ちゃんのこの文章では、人生はしっかり手にあるよ。いやむしろ、音楽にある、かな。